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町名の由来

和田地区にはどんな「町名」があるかご存知ですか?和田地区は、和田天龍川篠ヶ瀬北島薬師薬新安間安新材木龍光長鶴の全部で11の町があります。

江戸時代には、既に長上郡にある独立した「11の村」として成り立っていました。それらが、明治22年の町村制施行にともない合併して、一つの「橋田村」としてまとまり、字となりました。天龍川町の旧名・橋羽、和田町の旧名・永田のそれぞれ一文字ずつとって名がつけられたのです。

しかし、2年後の明治24年には、「橋田村」から「和田村」へと名が改められ、現在の「和田」という地名が生まれました。

明治29年に浜松市に合併され、和田村にあった11の「字」は、「町」として今日に至っています。この時、永田と橋羽は、名を和田町、天龍川町と変えたのです。

11の村 → 橋田村 → 和田村 → 和田地区、と移り変わってきたのです。

和田町(わだちょう)
市に合併前の浜名郡和田村大字永田が今の和田町の町域になっています。和田村大字永田となる以前は長上郡橋田村字永田で、さらにそれより以前は長上郡永田村として独立した一村でした。村高は『元禄高長』によると538石余りと、和田地区の旧村中ではもっとも大きな村勢でした。

和田町の前身である永田はこの地方ではもっとも歴史的由緒あるのある土地で、永田という地名も平安時代の文献である『知名抄』にみられる「長田郷」の故地と推定されています。天竜川の流域であったこの辺りは、往古長田郡と呼ばれ、長田上、長田下の不達に分けられていたことがあります。それが長上郡と長下郡となり、やがて長下が消えて長上郡だけとなりました。したがって和田地区の江戸時代の旧村は全て長上郡に属していました。

永田が何時頃から村づくりがはじまったものか明らかではありませんが、木船という小字から白鳳時代のものと考えられる布目瓦が出土し、大きな礎石も発見されているところから、浜松地方における仏教文化はこの地からはじまっていることが判る。永田の地名も往古の長田郷からきているとする説のほか、平安時代の保元平治の頃、長田庄司忠致がこの地に居住していたことに由来するとする説が『遠江国風土記伝』にみえている。長田庄司忠致といえば、平治の乱に敗れた源義朝(頼朝の父)が、東国に下る途中、知多(愛知県)の長田邸に立ち寄った時、入浴をすすめて裸になった義朝を暗殺した武士として知られている。