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町名の由来

安間町(あんまちょう)
和田地区の東部に位置するこの町は、北側に隣接している安新町の町域がくさびを打ち込んだように南に張り出している関係から、複雑な地形をしており、薬新町から中野町にむかって県道中野町子安線(旧東海道)を東進すると、まず安間町に入り、すぐ安新町を横切り、ふたたび安間町となり、中野町に入るようになる。金原明善の生家や明善記念館はこの町にある。

安間という地名は既に鎌倉時代から郷名として古文書にみえており、往古は蒲御厨の一角であった。つまり、伊勢神宮の神領であった。その後、南北朝時代になると伊勢神宮の影響力が次第にうすれていったようだが、この関係の史料がなく、明確なことが判らない。

『遠江国風土記伝』によると、「安間了願住于此所屋敷跡凡三段歩・・・」とみえ、南北朝の頃、安間了願という者がこの地に来往して開発にあたった・・・と記されている。この安間了願については『太平記』にその記述がみられ、南朝の臣として有名な楠木正行(まさつら)の家臣として、貞和4年(1348年)摂津国(兵庫県)の阿倍野合戦に臨んで大いに活躍した、とある。槍の名手として聞こえた法師武者であったようである。その了願によって芝切りされた村であるので、安間村と名づけられたとする説もあるが、すでにそれ以前の鎌倉期の文書に、安間の郷名がみえているから、氏姓が村名となったとする説はあたらない。

室町の頃の安間郷は、現在の安間町域よりはるかに広大であったようで、江戸期の安間村、安間新田村、薬師村、薬師新田村、北島村などはいずれも安間郷内の村であったのが、分かれて独立したものである。安間、薬師、北島の三ヶ村が独立したのは江戸初期以前と考えられるが、安間新田と薬師新田は江戸初期の正保年間(1644年~1647年)以後、それぞれ本村から分かれた・・・と、『遠江国風土記伝』にみえている。

江戸から明治中期まで長上郡安間村としての歴史を刻み、明治22年橋田村発足と共に同村の大字となり、さらに和田村の大字となった。昭和29年、市に合併され、市の大字に、そして昭和30年安間町となり現在に至っている。